独ソ戦の激戦地ランキングベスト5

連合軍と枢軸国を合わせて計3000万人の犠牲者が出たともいわれる独ソ戦。その中でも特に苛烈な戦いをピックアップし、ランキング化しました(あくまで、一つの戦いごとのランキングで、バルバロッサ作戦やバグラチオン作戦のような、いくつかの戦いの集合体は省きます)。

モスクワの戦い

ドイツ死傷者:約50万人
ソ連軍死傷者:約100万人
1941年10月~1942年1月

ドイツ軍による独ソ戦初頭の快進撃、バルバロッサ作戦の目的地であるモスクワ占領を軍事目標とした戦いです。独ソ戦開始以降、ドイツ軍は破竹の勢いでソ連軍を圧倒し、歴史上稀に見るレベルの占領地の短期的な拡大を達成します。

ただ、その反面で犠牲も多く、ドイツ軍の補給が追い付かなくなり、更なる東部侵攻には暗雲が立ち込め始めてきました。くしくも、ナポレオンがロシアに侵攻した年と同様、1941年も例年よりも早く冬が始まってしまい、冬支度をしていなかったドイツ軍はモスクワ戦線で苦戦することとなります。

ドイツ軍の電撃戦は航空戦力による戦車のサポートによって為されていたのですが、冬の訪れとともにドイツ空軍は雪嵐などで出撃できなくなり、ドイツのお家芸であった機動力がにぶることとなります。

ちなみに、同時期にドイツ快進撃のニュースを見た日本軍は、枢軸側で参戦してしまいますが、もうちょっと待ってドイツ軍がモスクワを占領できずに撤退するニュースを見れていたら、参戦する気が変わったかもしれませんね。

スターリングラードの戦い

ドイツ死傷者:約80万人
ソ連軍死傷者:約110万人
1942年8月~1943年2月

ガダルカナルの戦いとともに、第二次世界大戦のターニングポイントとして知られるスターリングラードの戦いです。交通の要衝であるスターリングラード(東京23区と同じくらいの大きさの都市)を押さえ、南方からの石油資源を確保しようというヒトラーの意図のもと行われた作戦で、当初はドイツ軍優勢でスターリングラード市の9割がドイツ軍の手に落ちますが、そのすきに背後からソ連軍の大軍がドイツ軍を取り囲み、戦史上稀にみるキレイな「逆包囲」が決まった形の戦いです。

逆包囲が決まったのち、ドイツ軍には補給が届かなくなり、大陸の戦いでありながら餓死者が発生するという凄惨な戦場でした。ヒトラーが最後まで降伏を許可しなかったため、弾薬の尽きたドイツ軍の犠牲者数はどんどん拡大、最終的にソ連軍に集団で投降するも、10万人の捕虜のうち生き残ったのは1万人と言われています。

レニングラードの戦い

ドイツ死傷者:約60万人
ソ連軍死傷者:約350万人
1941年9月~1944年1月

レニングラードの包囲戦です。2年を超える長丁場となったので、その分犠牲者の数も膨大なものとなりました。他の戦いと違い、派手なドンパチが繰り広げられたのではなく、完全包囲によって食料が町に届かなくなったことによる餓死者、補給線を確保しようとするソ連軍とそれを阻止しようというドイツ軍の地味な戦いの連続です。

ソ連市民は食うものが無くなり、死体や赤ん坊を食べたという記録まで残っています。最終的に、他戦線でドイツ軍が消耗され、北方軍団への補給の余力がなくなり始めてから、ソ連軍は大規模な反撃を開始し、ついに900日ぶりにレニングラードの包囲を解放させることに成功しました。

クルスクの戦い

ドイツ死傷者:約20万人
ソ連軍死傷者:約40万人
1943年7月~8月

他のランキング上位の戦いに比べ、短期間で膨大な死傷者が出たことで知られるクルスクの戦いです。歴史上最大の戦車会戦としても知られています。

スターリングラードの戦い以降、戦争の主導権をソ連に握られたドイツ軍は、じわじわと追い詰められていきますが、それでも淡々と反撃のチャンスをうかがっていました。第三次ハリコフ攻防戦に勝利した名将マンシュタインは、スターリングラード以降反撃に転じたソ連軍の勢いを封じ込めると、それと同時にソ連軍に突出部が形成されたため、これを包囲・殲滅することを企図します。

その結果行われたのがクルスクの戦いで、両軍合わせ6000両にも及ぶ戦車が一地域に会しました。

結果は、ソ連軍の重厚な防衛陣を突破できず、ドイツ軍の敗北となり(一説には、ヒトラーが優柔不断だったため、ソ連軍に防衛網を準備する時間を与えてしまったことが原因)、この戦いで戦車部隊を失ったドイツ軍は、さらに敗戦に向けた坂道を転がっていくことになります。

ベルリンの戦い

ドイツ死傷者:約40万人
ソ連軍死傷者:約40万人
1945年4月~5月

ナチスドイツの最後の大規模な戦いです。1944年のバグラチオン作戦でドイツに占領されていた地域を取り戻し、戦線をポーランド(ほぼ大戦前の国境)まで押し戻したソ連軍は、翌年にはドイツの首都ベルリンに向けた進撃を開始します。

迫りくるソ連軍を前に、ドイツ軍はハンガリーにおいて最後の大攻勢である春の目覚め作戦を企図するも、ソ連軍の重厚な防衛陣を突破できず、徒に攻撃部隊を消耗しました。

1945年4月、春の雪解けとともにベルリンに進撃を開始したソ連軍は、各地で消耗しきったドイツの防衛軍を各個撃破し、5月にはベルリン市内に突入します。捕虜になっても死、軍法会議にかけられても死、という後のないナチス将校たちはここで死に物狂いの抵抗を続け、市民を巻き添えにしながらソ連軍にも膨大な出血を強います。

最終的に5月8日まで続いた組織的抵抗も、ナチス高官の自殺と降伏、SSの壊滅のためついに継戦能力を失い、降伏することとなります。

参考文献: Brutal World War2

Follow me!